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無題
以前のサイトでも散々語りましたが、三島由紀夫の「中世における一 殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」が大変キッドとキラーを想起させるなあと思うのです。
永遠の美を留めるために他者にも己にも死を与えた「殺人者」と自由奔放に今を楽しむ「海賊頭」の対比が、私のキッドとキラー観に影響を与えています。特にキラーの思考回路を妄想する上での寄る辺です。
「海賊頭」が「殺人者」に海賊になるよう誘うシーンが好きです。
海賊は飛ぶのだ。海賊は翼をもっている。俺たちには限界がない。俺には過程がないのだ。俺たちが不可能をもたぬということは可能をももたぬということである。(抜粋)
どんだけ海賊業が好きなんだっていう。この「海賊頭」は宝も女も「手に入れたと思ったとき、既にそれらは自分のものだったんだッ!」みたいな思考で、行動派な男です。
「殺人者よ。花のように全けきものに窒息するな。海こそは、そして海だけが、海賊たちを無他にする。君の前にあるつまらぬしきみ、その船べりを越えてしまえ。強いことはよいものだ。
弱者は帰りえない。強いものは失いうる。弱者は失わすだけである。向こうの世界が彼等の目には看過される」
というセリフが特に良いです。放っておいたら、「殺人者」がどういった末路を辿るかわかっていたんだろうな。
キッドに通じるところも若干あるなと感じます。例えば海賊であることに誇りを持っていそうなところ。ロマンチストかつリアリストでその比率は2:3ぐらいに見えるところ。見えないものじゃなくって、見えるものを捜していそうというか……同じワンピースを目指しているルフィとはわずかながら、決定的な違いがあるように思える。憶測過ぎるにも程がありますが。
この作品では「殺人者」は友人である「海賊頭」の誘いを断り海に出ることはありませんでしたが、もし「殺人者」が海賊に転向していたらキッドとキラーのようになるのかなと思ったり。
なにゆえキラーが殺戮武人と呼ばれているのかは不明ですが、殺人行為に自分なりの理念を持ち得ているから「武人」であるのだと思いたい。
「殺人ということが私の成長なのである。殺すことが私の発見なのである。忘れられていた生に近づく手だて。私は夢みる、大きな混沌のなかで殺人はどんなに美しいか。殺人者は造物者の裏。その偉大は共通、その歓喜と憂鬱は共通である。」
殺人を正当化する気は毛頭ありませんが、キラーはこのくらい考えていても面白いと思う。
たぶん、「邪魔だから」「戦いたいから」みたいな至極本能的な思考なんだろうなとわかっちゃいますが。
哲学的というならキッドの方が片鱗を持っている気がする。海賊哲学。ルフィでいうところのポリスー。
しかし、これが18歳の時の作だというのだから溜息が出ます。以降の作品と比べると装飾過多というかお耽美色が強いですが、むしろそこが好き。色鮮やかな文章表現に憧れます。
「君は未知へ行くのだね!」と羨望の思いをこめて殺人者は問うのだった。
「未知へ?君たちはそういうのか?俺たちの言葉ではそれはこういう意味なのだ。――失われた王国へ。…」
いいなー