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箱の船 今日も空と海は、互いに輝きの異なる青を主張し合っている。その眩しい色彩の中、差し色の様に赤茶気たクレーンが林立している。造船所は午後の光に包まれ、優しい風景画を思わせる光景を作り出していた。
海を縄張りとする者達にとっては、珍しくもない美しさだというのが残念なところだ。それよりも彼らの目を奪うものは、穏やかな波間を切り裂くように存在する一隻の帆船だった。
正午過ぎの陽射しが目を射るほどに首をもたげなければ、マストの半ばすら拝めない。建材は新しすぎない樫を使用しており、その鈍く暗い墨色の光沢からは、塗装後丹念に磨き上げられたことが想像できる。船首には悪魔を模した髑髏があしらわれており、遠目にも怖気の走る意匠が確認できた。船首に限らず飾り窓やドアノブに至るまで、見る者を威嚇するかの如き攻撃的な印象を受ける。今は畳まれている帆も力強いドレープを描いており、風を受けた時はさぞや壮観に違いない。
海賊船たる獰猛さを前面に押し出し、かつ技巧を凝らしたその船は羨望と畏怖の的だった。
船の相談に訪れていた海賊達が、船大工にその禍々しい船のオーナーの名を質す。そして端からああ、と嘆息し、何人かは慌てて踵を返した。
「いい仕上がりじゃねェか」
「御希望に沿えるよう善処致しました」
「出来によっちゃあ、お前を進水式の樽にしようかと思ってた。ハハハ」
「はっ?……ははは……」新しい船を前に、発注者である海賊ユースタス”キャプテン”キッドは、鋭いヒールで地面を衝いてみせた。
硬質な衝撃音がその場にいる者達の耳に刺さる。口の端をつり上げるキッドの隣で、船大工の全身が強張っているのが傍目にもわかる。下手な反応をして、音に聞く凶悪な海賊の機嫌を損ねるわけにはいかない。強者の冗談は、時に弱者にとって笑えないものである。「この出来なら、報酬に色をつけてもいいぜ」
船首から船尾まで視線を滑らせ、キッドは満足げに呟いた。
どうやら脳天をかち割られる心配はなさそうだと判断した船大工は、小脇に抱えた明細書他諸々の書類を取り出しかけた。しかしそのタイミングは誤りであった。
船のマストから何かが勢いよく落下してきたのだ。何か、ではなく人であるということはすぐ知れた。あんな高いところから、と船大工は目を見張る。
それは、かつと存外に軽い音をたててキッドの前に降り立った。半拍遅れて、獣のたてがみのような長い金色の髪が落ちる。「そんなところで油を売るな、キッド」
「キラー」キラーと呼ばれた仮面の男は、己の船長に対し、非難めいた語調を隠さなかった。
「キャプテンなら積み込みの指揮でもしてくれ」
そう言って、船を顎で指す。波止場から延びる簡易の階段を踏み鳴らし、異装の男達がせっせと積み荷を運び込んでいた。
昨夜完成の一報が入った後、造船所に預けられていた前の船の荷物と宿場に持ち込んでいた多少の手荷物を新たな船の前に集荷していた。今日は2時間ほど前から引越作業が行われている。「特に滞ってるようには見えねェが?」
キッドは悪びれることなく肩をすくめた。
「ところでどうだ、おれ達の船は」
もし男が仮面を被っていなければ、あからさまに眉間に皺を寄せる様が確認できただろう。しかし、心底愉快そうな船長の様子に苦言を呈す気は失せたようだった。
「……新しくて、大きい」
自分が乗る船に興味も無くはないが、キラーにとって船とは、前に進み、嵐を凌げ、欲を言うなら食料が積んであれば事足りる存在だった。
「その通りだな」
キッドは苦笑した。
2人は随分と長い間共に航海しているが、だからといって全ての趣味趣向が一致している訳ではない。キッドの持つこだわりの多くは、キラーには理解のできないものであった。しかし、キラーはどちらかといえば一般的な機微とは乖離していると自負しているので、仲間達が嬉しそうに新しい船へと駆け寄る様子を見ると、キッドの機嫌にも得心がいくのだった。
「まァいい」
キッドは、船大工がすっかり渡す機会を失った船の資料を奪い取った。更に、おののく彼の胸ポケットからペンを抜き出し、見積りを記した書類の額面を大きく上乗せした。そしてインクが乾く間も与えずそれらを投げ捨て、簡易階段へ足を進める。キラーも続いた。
「お前、全然構造の話聞いてなかっただろ?今から中を案内してやるよ」
「だから積み荷を…………いい、好きにしろ」空に海に舞い飛ぶ書類達が、雲の代わりに白を添えていた。
「砲台も36に増やしたぜ」
今日のキッドは、キラーがこれまで見てきた中でも格別上機嫌な部類に入る。初めて懸賞金が億を越えた時よりも、弾んでいるようだった。
最初は船というより舟だった。キッドとキラーと、粗削りな夢の輪郭だけが乗っていた。次の船ではようやく海賊旗が掲げられ、乗員も片手では足りなくなった。その船を増築しては航海を続けていたが、大きな波を越える度に船は傷つき、キッドを慕う者が乗り込み、手狭になった。
新世界が目前となった今、装備の増強は不可欠であった。何より、キッドは自らの野望を乗せるに足りる船を求めていた。
「船長室がなかなかいい。先に見に行くぞ」
船内に一歩足を踏み入れると、新しい船舶特有のよそよそしい匂いが漂ってくる。何度か往復しているが、そのたび知らない船に乗っているような錯覚に陥る。
作業中の船員達が、頭ァあれが行方不明です、これはどこに置くといい?などと口々に声を掛けてくる。その都度キッドはよどみなく指示を出した。流石に設計段階から介入していただけのことはある。完成したばかりの船は、既に船長のものだった。例え目をつぶっていても、望み通りの部屋に辿り着くことができるに違いない。
「キッドが指示を出した方が効率がいい」
「あんまり素早く終わっても味気ねェもんだぜ?それにあいつらは、出航前に右往左往して船ん中を把握しておく必要がある」そこはかとなく詭弁の香りがしたが、内部を把握しておかなければならないのは間違いない。全室巡らずとも、船内の構造が入り組んでいるのはわかる。乗り込んできた敵を撹乱するため、キッドがわざとそうしたのだ。
「こいつで新世界を制覇するんだ、船である以前に要塞だと思え」
新世界、と口にする時のキッドの目は常に未知への渇望に満ちていた。
「ずっと欲しかったんだぜ、船長室」
キラーがドアを開けようとすると、キッドが先んじてドアノブを捻った。
「お前にしてはシンプルな部屋だ」
「まだ調度を揃えてないだけだ。そのうちすげェことになるぜ」思いのほか、さっぱりした部屋だった。外装のおどろおどろしさとは趣が異なる。揃いの木材で造られたベッドに酒棚、日当たりのいい窓辺に造り付けられている机がずっしりとした存在感を放つのみだ。部屋の隅には、荷物の入った箱が積み上げられている。
最低限の家具しか入っていない室内は、海賊船というより上等な商船の一室の様な印象を受ける。そんな気取った空間も、これから幾多の戦利品だとか今まで通ってきた航路の海図だとかで埋め尽くされ、キッドらしくなっていくのだろう。「いい部屋だろ」
机の天板を掌で愛でていたキッドは、近くの丸窓を開け放った。すぐに緩やかな潮風が吹き込んでくる。
ふとキラーはこの光景に既視感を覚えた。その正体を探り当てた時、仮面の内で口元が綻んでしまうのがわかった。故郷の南の国で、いつか棒きれで地面に描かれていたのはこの部屋だ。
(子どものままか、キッド)
そんなことを覚えているおれも大概だ、とキラーは小さく一人ごちた。
「……ロマンか」
「ロマンだな」この感覚はわからないでもなかった。何故なら、自分もまた海賊であるからだ。
「次は隣だ」
キッドの持っている図面を覗き込む。隣室は船長室より一回り小さい。
「第2医務室か」
「お前の部屋でもある」寝耳に水とはこういうことをいうのだろうか。
「……図面には第2医務室と書かれてる」
「緊急時にはそうなるが、普段はお前が自由に使えばいい」図面をよくよく見てみれば、確かに第2医務室という文字には括弧がついていた。
「自由にと言われても、おれは部屋なんて必要ない」
いくらこの船が大きいとはいえ、クルー全員の個室を確保するだけのキャパシティは当然無い。船長であるキッドは特別としても、キラーには個室を得るいわれはなかった。
「そう言うな。この窓からすぐデッキに飛び出せるから、なかなか便利はいいぜ」
船長室と比べて随分と低い位置にある大きな窓は、なるほど採光にも乗り越えるのにも適していた。荒天時の浸水を防ぐためかガラスは二重になっている。窓辺に立つと甲板で慌ただしく作業に勤しんでいる船員達が見渡せる。奇襲の際は真っ先に駆け付けられるだろう。それはこの船でキラーに与えられた役目でもあった。
「さて、おれは船長室を片付けるから、お前も自分の荷物でも運べ」
「おいキッド」ろくに言葉を挟む隙もなく、ドアが閉まる音がした。ひょっとせずともキッドは船長室とこの部屋を見せたかっただけなのかもしれない。
キッドの気まぐれには慣れているので、諦めて部屋に留まることにした。
改めて見渡すと、船長室に劣らず室内には最低限のものしかない。医務室然とした薬品棚の隣に、明らかに酒棚とおぼしきものが造り付けられていることを、船大工は設計段階で疑問に思わなかったのだろうか。棚の他に既にベッドが運び込まれており、白いシーツが掛けられていた。腰掛けると予想以上に体が沈み込み、慌てて後ろに手をつく。
それまでの寝床といえば、雑魚部屋のハンモックか、良くて宿場の少々固いベッドだったのだ。未知の柔らかさに闘争心がほどけていきそうだった。壁越しにガタガタと物を動かす音がした。どうやらキッドは本格的に荷物の始末に取り掛かったらしい。
今まで自分の部屋が欲しいなどとキッドに言ったことがあっただろうか。酒の席でさえそんな子どもじみた真似をした覚えはない。これまでの人生においても、自分だけの空間を持ち得たことなどなかった。
海賊というものは私生活も何もあったものではない。暴力も、略奪も、食事も、休息も、全て等しく日々の生業である。気が詰まったら、ふらりと誰もいない町外れに赴いたり、マストのてっぺんで空を仰ぐくらいのものだ。それが当たり前だと思っていた。
その生活は他のクルーにも言えることで、自分だけの話ではない。
既に人生の大半をキッドと、キッド海賊団と共に過ごしている。口にはしないが、それはキラーにとってかけがえのないもので、生きている理由でさえあった。今の処遇に不満を持っているようにでも見えたのだろうか。あるいは、長年片腕を務めてきた報酬だとでもいうのだろうか。だとしたらお門違いだ。
キラーはしばし天井を仰いだ。
そして一度立ち上がってからベッドに膝立ちになり、ベッド脇の窓を少し開けた。気持ち声量を上げてつぶやく。
「キッド」
「何だ」予想通り、窓を介してキッドの返事が返ってくる。壁づたいにも小さくくぐもった声が聞こえる。
「ずいぶん静かだったが、寝てたのか?」
「考えたんだが」更に声を張る。
「おれだけが個室をもらうのは皆に悪い。あと、このベッドは寝心地が良さそうで逆に良くない」
ベッドのくだりは余計だったかもしれないが。
「別におれは何か欲しいわけじゃない。部屋なんかなくても居場所があればそれでいい」
「お前を特別扱いして何が悪いんだ?」
返ってきたのは、全くもって不可解だという声色だった。
「部屋を与えたなんてつもりはねェ。むしろ部屋の方がお前に与えられて光栄なんだと思え」
「……?」キッドの言うことは、キラーには理解しがたいものだった。その気配を察し、キッドは続きを紡ぐ。
「船は容れ物だ。ボロくなったら修繕するし、こうやって新しい船を買うこともある。替えが効くからな。だが、キラーの代わりは絶対存在しねェ」
作業の手を止めているのか、その言葉はいやに明瞭に聞こえた。
「他の奴らも勿論大事だが、おれとお前でキッド海賊団だ。船が変わろうがなくなろうが、それだけは不変だ」
今、壁越しに話していて心から良かったと思えた。キラーには仮面があるが、それでも色々なものが顕れてしまっているだろう。部屋があるのも悪くはない。
「深く考えんなよ。別にずっとそこにいろってんじゃねェ、荷物置場にでもすりゃいいし、夜はこっち来て酒飲みゃいいだろ、なァキラー」
「無茶苦茶を言う……」「だが、違いない」
目の覚めるような青は鈍く焼けた赤に移ろい、やがて船員達が引越作業の完了を告げに来た。
そして宵闇が船を覆う頃、2人は船長室で乾杯した。